大変なことがたくさんあったが、今は全てが良い思い出

※内容は、令和5年9月活動記録作成当時のものです。

受任期間 : 平成29年5月~令和3年8月(4年3か月)

本人について
 氏名 : O・Tさん(男性、受任時80歳)
 居所 : 公営住宅(瀬戸市)
 既往歴 : 保佐、狭心症等の持病、要支援2

  O・Tさんとの出会いは平成29年4月20日の名古屋家庭裁判所での調査官面談の時であった。今でもその時のことを鮮明に覚えている。尾張東部成年後見センター(当時)から保佐人候補者としてのお話を頂いてからそれまでの間、どのような方を支援させていただくか気になるところであったが、とても穏やかそうな方で一安心した。

  5月29日、初めての自宅訪問。既に支援をされている方たちとのサービス担当者会議から始まった。地域包括支援センター(以下、包括)の看護師の方が中心となって既に支援体制がほぼ整えられており、その一部を引き継ぐような形であったのでとても助かった。
 毎週水曜日に訪問することになった。 O・Tさんはお話し好きな方で、今の生活のことやこれまでのことをたくさんお話してくださった。
 しかし、自宅への訪問、穏やかなやりとりは半年ほどで突如終わりを迎えた。

  平成30年1月17日午後0時29分、瀬戸市消防本部救急隊から電話が入る。---現在尾張旭市内の病院に向けて搬送中。前日に転倒し動けなくなり、訪問したヘルパーにより発見され、119番通報があった。---とのこと。東京にいたため、監督人と包括の看護師の方に対応して頂く。入院にはならなかったが、自宅に戻ってもすぐに通常の生活ができない状況であったとのことでショートステイを手配して頂いた。夕方17時を過ぎていたが、入所を受け入れて頂いた施設と機転を利かして手配して頂いた両名には唯々感謝しかなかった。
 翌々日、ようやく本人とお会いすることができ、お元気そうで安堵した。ただ、身動きが取りづらそうで、やはり自宅へ帰ることは暫く難しい状況であった。

  ショートステイの長期利用はO・Tさんの収支・資産状況では難しかったため、監督人が早速他の施設(小規模多機能型居宅介護事業所での宿泊利用)を探してくださり、2週間後、移ることになった。
  宿泊中は隣にある喫茶店に歩いて連れて行ってくださるなど、施設職員がリハビリに取り組んで頂いたこともあり、徐々に杖をついて歩けるようになったりして、在宅復帰に期待が持てそうであった。
  しかし、お一人暮らしでの生活に戻るための回復までにはなかなか至らず、グループホームに移って回復を待つことになった。

  8月21日にグループホームに移り、引き続き在宅復帰にお互い期待を持っていたが、いくつかの内臓疾患の発症などもあり断念することとなった。そのため、10月17日付で家庭裁判所からの居住用不動産処分の許可を得て、公営住宅を引き払うこととなった。冷蔵庫内の食品等は期限を見て随時処分をしていたが、その他の物は転倒時のままであったので家財の処分が必要となった。しかし、業者に処分費用を見積もってもらったところO・Tさんの資産状況では到底支払いをすることができない額であったため、 O・Tさんの友人や監督人を始め支援者総出で処分した。 O・Tさん不在中やその前後にも隣戸のHさんにも大変お世話になり、このときも人のつがなりのありがたみを非常に感じていた。

  要介護3となり、医療依存度も上がってきていたこともあったため、看護職員の配置がある特別養護老人ホームの申し込みを数か所行っていた。グループホームの値上げと特養の空きの時期が重なったため、令和元年12月18日、再度施設を移った。
 残念であったのはその特養では看取り介護を行っておらず、 O・Tさんの望む生活場所で最期を迎えたいという希望を叶えることができなかったため、引き続き他の特養も入所申込みを継続していた。そしてそのうちの1つであった長久手市内にある特養から空きが出たとの連絡を受け、令和2年6月8日に移った。 O・Tさんも元々長久手市内に住んでいたため、喜んでおられた。

  ちょうどその頃、新型コロナウィルス感染症が本格的に流行し始め、思うように面会ができなくなってしまった。以前からO・Tさんに、一緒に天ぷらそばを食べに行きたいとお話を頂いていたが、外出もままならず、辛抱が続いた。

  私は保佐人であり、成年後見人ならすることができるいわゆる死後事務ができないことが気になっていた。 O・Tさんには娘さんがいるものの、数十年来没交渉であったため、万が一O・Tさんが亡くなったときの葬儀や債務の支払いなどに不安を感じていた。そこで、死後事務委任契約をO・Tさんと結び、公正証書として残しておこうと考え、監督人に司法書士を紹介頂き、話を進めていた。しかしこのことも、施設の面会制限があったことでなかなか思うように進めることができずにいたところ、 O・Tさんが入院することとなった。

  令和3年7月27日、特養から連絡があり、熱発があって酸素飽和度も低いため病院受診をするとのことであった。私が病院に到着したとき、医師から脱水か栄養失調ではないかと話があったが、CT検査等の結果、誤嚥性肺炎とのことで入院することとなった。
 病棟の入院受入れ準備中、 O・Tさんと久々にガラス越しでない会話をすることができた。その中で、センターから頂いていた「医療と葬儀・埋葬に関する希望」票に則って聞き取りをさせて頂いた。この聞き取りがO・Tさんとの最後の会話となるとは思ってもいなかった。
 8月29日朝5時過ぎ、病院から電話。本人危篤とのこと。それまで、退院を前提に監督人と共に次の受入れ先を探していたりしていたので、その急変に大変驚いた。
  初めて娘さんに電話をする。始めのうちは不審そうな口調であったが、すぐに状況を理解してくださり、最期に立ち会われないことなどを確認した。また、死後に発生する諸手続きや入院費の支払いなどについて委任を受けた。

  監督人の援助の下、同日に通夜、翌日に葬儀を執り行い、その後、その他の死後事務も終了して監督人から娘さんに相続財産等の引き継ぎをして頂いた。
 そして、思いもよらぬ娘さんからの手紙に、保佐人をやって本当によかったと思えた。

  この活動記録を書くために受任時の記録「市民後見人業務日誌」を読み返したが、とても多くの方たちと関わり、支えて頂いたことに改めて気づく。大変なこともたくさんあったが、 O・Tさんの人柄もあって、今は全てが良い思い出となっている。

監督人コメント

  鈴木さんの記録を読ませていただき、当時の様子が鮮明に思い出されました。鈴木さんが書かれているようにO・Tさんのお人柄は穏やかで、いつも感謝を口にされ、市民後見人が受任するにはぴったりだと思いました。
  しかし、実際に受任してみると、在宅で暮らす方の保佐人というのはなかなか業務が多く、しかも金銭的に厳しい状況でしたので、鈴木さんをかなり悩ませてしまいました。でも鈴木さんだからできた保佐人だったと思います。
  葬儀や火葬、死後の支払いなどの死後事務に関してぜひ、死後事務委任契約を締結しておきたかったと残念に思います。